おもろいはなし・きになるはなし *21


2006年正月
新年あけましておめでとうございます。
今年も、どうか、よろしくお願いいたします。
2005年12月30日から、2006年1月2日まで、
我々の故郷、愛媛県西条市で過ごした。
夫の両親は90歳と85歳でふたりとも元気に自宅で暮らしている。
その、夫の実家に、夫の弟妹家族と、我々と長男家族、長女、次男が
集まったのだから・・・壮観だった。
私の父は30年前に他界。そして、母は、いろいろな病気をかかえて入院中の80歳。
妹は松山に自宅があって、年末年始は、孫をともなって子供達の家族が帰省してくるので
松山に帰っていて・・・・わたしは、自分の肉親とは、今回は、母に会えただけだった。
わたしの三人の子供達は、毎日、1,2時間、病院の母とすごしてくれた。
母は、痴呆が進み、若い子供達には、取り留めの無い話を聞くのも大変だったろうに
あたたかく、母の相手をしてくれて、ほんとうにありがたかった。
30日にはじめて、次男を母のところへ連れていったとき
次男は、窓のほうをむいて、少し、泣いていた・・・ように思えた。
ショックだったのだろう。2回目からは、長男、長女もいっしょだったから
だいじょうぶだったからよかったが。。
妹から、きいていたとおり、11月末に行ったときより、痴呆がかなりすすんでいた。
なにもかもわからなくなる手前の今が、母にとっても、家族にとっても、一番辛い時期
ということで、(お見舞いに行ってくれた、子供達を帰して、わたしは、毎日、夕方おそくまで
母のそばで過ごしたのだけれど、)気分の変化の激しさに、ほんと、驚愕した。
妹は、お見舞いに行っても、短時間ですませているのだが、その理由がよくわかった。
毎日、長時間ついていると、妹のほうがこわれてしまう。
わたしは、月に1回くらい、1泊2日くらいできているから、いちにちのほとんどを
母のそばで、すごすようにしているが、毎日は絶対、つらすぎる。
11月末のときまでは、少しは、おだやかだったけれど
今回は、怖いくらいの状況にもなったり、ほんと・・・いろいろだった。
たった4日だったけれど・・・疲れきった。身体ではなく・・・心が。
西条で、ホテルに宿泊中は、薬を飲まないと・・眠れなかった。
母の病院を暗くなってあとにして・・・むかうところは・・・夫の実家。
17人くらいの、明るい元気な人々が、連日の宴会。
ギャップがすごすぎた。
老後の状況の違いは、誰が決めるのだろう?夫の父は「それまでの生き方による」と
言った。母は、良い生き方をしなかったのだろうか?そんなことはないよ。
ものすごくよくがんばってきたものね。人のためにつくしてきたもんね。
1月1日は、義父の90歳の誕生日なので、我々と子供達が連泊宿泊しているホテルの
宴会場で、新年会&90歳誕生会・・そのたもろもろの祝賀の宴会をした。(夜に)。
義父が、挨拶で「120歳まで生きる」と、言い切った。心身ともに溌剌としているから
夢ではないかもしれない。
子供達と、同じホテルに宿泊したので、グランドサンRくんが
元気に走って、我々の部屋に遊びに来てくれて、
ベッドの上で、ストレッチやヨガを一緒にしたり、桃太郎の鬼の役をさせられて
桃太郎のRくんにやっつけられごっこをしたりして・・・楽しいひとときだった。
私と子供達が母の病院に行っている間は、長男の愛妻K子ちゃん&Rくん&Lくんは
夫の実家にすっかりなじんで、もちつきなんかしたり、いろんな遊びをしていたらしい。

帰宅して、デジカメ写真を見て・・・はじめてその状況がわかった。
K子ちゃんにとっては、ふつうなら、緊張する状況なのに、夫の弟妹の優しさの
おかげで・・・とけこみやすかったみたいで・・・ほんと、すばらしい弟妹だと感動&感謝した。
やはり・・・こんなすばらしい4人の子供を育てたから、義父と義母はしあわせな
老後を手に入れることができたのかもしれない。
1月2日に、長男家族&長女は、松山空港から、羽田へと帰って行った。
そして、我々と次男は、JRで博多に帰ってきた。
みなさん、ほんとうにお世話になりました。
ありがとうございました。
ひまごLくんと、義母・義父。
わたしの母にも、だかせてあげたかった。

大宴会・・・乾杯&ケーキカット(義父・ひまごRくん・義母)・・・すばらしいケーキ。。

カラオケもおもしろかったね。85歳の義母と、義弟の嫁さんが「りんごのうた」を歌ってくれた。
わたしとRくんの至福の時。いっしょにストレッチ!!


これが・・2006.1.1の母。
また、会いにいくからね!!


これは、2005年8月の母・・80歳
老人保健施設「ゆるぎそう」で。。
このときは、表情が明るくて、ふっくら美人で。。
おしゃれが一番の関心事だった!!
わずか、4ヶ月で・・・。

そして・・・その3年前は・・・。

これは、2002年11月の母・・77歳。
妹にだっこされているのは、グランドサンRくん(5ヶ月)
自宅で、のんびり1人暮らしを楽しんでいた頃。
このあと・・・2003年夏ごろから・・・母の病気とのたたかいがはじまってしまった。

2006.1.4(水)
母のその後
夕方、愛媛・西条の妹から電話があった。妹の夫の定年退職後の再就職先が
松山ではなく、西条市の隣の新居浜市なので、数年前から、妹夫婦は
松山の自宅には週末に帰り、週日は、西条市のマンションで暮らしている。
母の老化が進んでいた頃だったので、妹夫婦が、実家の近くに住んでくれるように
なったことは、とっても、ありがたいことだった。
そして・・・電話。
妹夫婦は、年末年始を松山の自宅ですごし、1月3日の夕方、西条に帰ってきて
病院の母のところへ行ったそうだった。ごきげんは普通だったそうだ。
長く顔を見せなかったことも、忘れていたようだったらしい。
安心して、今日、1月4日のランチ頃、妹が病院に行くと
母は、ベッドに横たわり、トイレはもちろん、ポータブルトイレも使えない状態になっていた
らしい。
原因は・・・・お風呂(毎週、水曜日が入浴日)で失神。
風呂に行くまで、普通だったのに。
失神の原因・・・・脚がむくんでいるので、利尿剤を投薬されていたのにかかわらず
水分をほとんど、とっていなかったので、脱水症状になっていた。。
母は、病院がきゅうすに、お茶を配ってくれるけれど、ほとんどのまない。
だから、水分は、食事に含まれるわずかの水分と、薬をのむときの水だけだった。
高齢になると、のどの渇きにも、気がつかなくなる・・・これはTVでもよく言われていて
習慣的に水分をとるようによく言われているが・・・・まさにこれ!!
年末年始、私がついていながら、その点に気がついてあげられなかった!!
ほんとうに、申し訳ない。まさか、利尿剤をのんでいたとは知らなかったことも
ほんと、大きな反省点だった。
ということで、妹とふたりで話した結論。。
「看護婦さんは、どうして、利尿剤のことを教えてくれて
なかったのか、くやしいけれど、すんでしまったことは仕方ないので、
これからは、母はジュースは好きでよく飲むので、ジュースをあげようね」
身体は寝たきり状態になってしまった母だけれど・・・おくちは達者だったそうだから
すこしは安心だよね。意識がもどらなかったり、しゃべれなかったりしたら
これは重大事態だったかもしれない。
私が、帰省していた、年末年始、病院に行くと、母が、ひとりぽつんと
ベッドや、椅子に座ってぼ〜としていて、悲しそうで、さびしそうで、不安そうで
わたしは、鼻のうらがつ〜んとして、涙が出た。だから、帰るときも辛かった。
福岡の自宅に帰っても辛さは続いている。
でも、考えようによっては、母が自宅でひとりでくらしているよりは
断然、いい環境なんだよね。看護婦さんや、スタッフや、お見舞いのひとたちが
行きかう・・そんな、人々の気配の中にいられるのだから。
TVや読書も楽しめなくなった時の・・心模様を思うと、ほんとせつないけれど。。。
母は、読書が好きで、市立図書館によく行っていた。
福岡のわたしの家に来てくれたときは、家にあった、やさしい物理の読み物を
読んでいたりしたものね。
だから・・・孫のことまでわすれても、漢字の熟語がはなしの中に
ぽつりとでてくる。
「青天の霹靂」・・・これが出てきたときは・・・驚いた。
脳みそのメカニズムは、どうなっているのだろう???
そして・・・
2006.1.5(木)
昼前に妹から電話。「今、病院に来たのだけれど、昨日のトラブルは
解決して、いつものようになっていた。朝、ナースステーションに歩いて来て
看護婦さんを安心させた」とか!!
よかった。ちょっとだけ、ほっとしたよ!!
携帯のアニメに矢印を持っていってみよう!!
大好きなものに化けるよん!!

2006.1.8(日)
優れものみたいだよ!!

室内が乾燥すると、てきめんに、のどが痛くなります。
みなさん、是非・・・お宅でも、設置されてください。
エンベックス気象計株式会社・・製
「快適モニター」です。
温度計&湿度計&不快指数計
それぞれ・・・わかりやすく表示されます。
直径14cm!!
値段は、2000円くらい。
夫が、今日、「ヤマダ電機」で買ってきてくれました。

うれしいプレゼント
お正月に、義弟の嫁さんから、美しいビーズの指輪をいただきました。
ありがとう!!MARIさん!!
大切に愛用します。


速報!!
2006.1.9(月)23:14
長男の愛妻K子ちゃんより写真付携帯メール
「速報・・BIG NEWS・・・
グランドサンLちゃん:::::寝返り成功!!」

なんて、うれしそうなお顔なのでしょう!!

2006.1.13(金)19:48
今、受信した携帯メール・・・グランドサンRくん&Lちゃん兄弟!!

めちゃ可愛いでしょ!!愛らしいでしょ!!
今日は、Rくん&Lちゃんは、ママと車でお出かけしたそうです。
図書館で赤ちゃんの絵本選び・読み方とわらべうたを教えてもらったのだそうですよ。
そして・・・業務スーパーで、Rくんの牛乳を大量購入して・・・
病院でLちゃんの4ヶ月検診。。体重も身長もバッチリ!!
診察中もケタケタ笑っていたそうですよ。
そのあと・・・お買い物をして・・・お家に帰って・・・夕飯を食べんだって!!
若いママは・・・なんて元気なのでしょう!!
すごく・・・充実した、一日だったね。
ママK子ちゃん・・・・お疲れ様でした!!

ひさしぶりにCDを購入。
平原綾香の「FROM TO」
1、晩夏(ひとりの季節)
2、言葉にできない。
3、いとしのエリー
4、いのちの名前
5、MISSING
6、秋桜
7、TRUE LOVE
8、桜坂
9、なごり雪
10、翼をください
11、あなたに

なかなかいい!!
特に、昔の曲が・・・・・。

2006.1.14(土)21:47
どんどん・・いろんなことができるようになる・・
毎日が・・・成長・・・発見!!
まぶしい・・・あかちゃんとママの毎日!!
「子供を育てる」・・とっても大変だけれど・・・とっても偉大で楽しい仕事。。。
大きい喜び!!
グランドサンLちゃん・・・自分でミルクを持つようになりました!!

ソファーにもたせかけていたら、自力で座っていた
グランドサンLちゃん!!

きゃ^^可愛い!!
めちゃ^^可愛い!!

2006.1.16(月)
読書・・再開!!
「世にも美しい数学入門」
藤原正彦/小川洋子・・・・共著。

小川洋子さんが、「博士の愛した数式」を書くにあたって
数学者・藤原正彦先生から・・指導してもらったらしい。
そんないきさつも書かれたおもしろい本であった。
「三角形の内角の和が180度である」・・・美しい。
わたしも・・その気持ちがよくわかる。
友愛数も美しく、すてき。。
ほんと・・・このように中学・高校でも数学の授業がされるならば
みんな、数学が大好きになるだろうに!!
おどろいたことに・・・数学者・藤原先生は「若き数学者のアメリカ」の
著者だったのだ。
この本は、子供達が三人ともF高校に合格し、入学までに読んでおきなさいと
指定されていた、本の1冊だった。
そして、40歳すぎで、他界してしまった親友のIWAASA MASAKOさんが
わたしにプレゼントしてくれた本だった。もちろん、子供達がまだまだ小さい小学生だったころ。
だから、高校入学の際の読書感想の指定図書に「若き数学者のアメリカ」を見つけたとき
ほんとうに驚いた。当然、子供達は・・この本を選択した。
ノーベル賞には、ノーベル数学賞が無い。
その理由・・・・
ノーベルがあこがれた女性数学者が、ノーベルを選ばないで
男性数学者を愛してしまったからだった。
その男性数学者は・・・ノーベル賞数学賞があるなら一番目に受賞すべき
優秀な学者だったらしい。
なんだか・・・信じられないような・・・ありそうな・・・!!
書ききれないほど・・面白い内容だった。
読みやすい対話形式だから・・・気楽に読めるとよ!!

自然数の2乗の和を求める方法
自然数の3乗の和を求める方法
0(ゼロ)はインドの人の大発見だとか!
数について何かを発見するためには、数を転がして、ころころと手のひらで
弄ぶことが一番重要だそうです。
あと、デカルトの数直線、虚数についてとかガウス平面、
美しい幾何学。。。。。
すべてが・・・興味深かった。おもしろかった。

中学・高校・大学・・で勉強した数学がなつかしくなった。
また、子育て時代に、高校受験用の数学問題集を解いてみたり
チャート式数学で高校の数学をやりなおしたり
夫の勧めで、行列式を勉強したり・・・
そんなことも懐かしい・・・数学の思い出。
40代の10年間、数学に係わる仕事をしたのも・・懐かしい思い出。。
やはり、わたしも、数学の美しさが・・・大好きなのかもしれない。
解けた時の・・・さわやかさ!!
これにつきる。。
やはり・・・もういちど勉強するなら・・・数学がいいなあ。
テストは大嫌いで、成績もよくなかったけれど!!

2006.1.18(水)
「THE有頂天ホテル」
観ることができなかった!!
ルネ大橋のHATIYAエアロ60が、HATI先生腰痛のため代行という
情報が入っていたので、今日は、13:00〜の「THE有頂天ホテル」を観る為
天神ソラリアビル7Fソラリアシネマにでかけた。
じゅうぶん余裕ある時間に到着したつもりだったが
チケット売り場で、私の前の人で・・・「完売」!!
くやしいけれど仕方がない。次は15:45〜なので・・遅すぎる。
とっととあきらめて、地下街のユーハイムでケーキセットでお茶して
天神のダイエーで夕食の買い物をして帰宅した。
映画「博士の愛した数式」が、まもなく公開されるから、その前に
観ておきたかったのだけれど・・・甘かった。すごい人気だったのね!!
始まる時間の1時間まえぐらいに行ってチケットを購入すること!!ですよん!!

夕方・・愛媛の妹と電話でおしゃべり。
母は・・・・最近・・・上機嫌。
胃の出血の治療が成功して・・調子がいいこと・・・
&&
病院でお友達ができて・・・ナースセンター前のロビーで、ず^^っとおしゃべりが
できているから・・・。
妹が見守るなか、昼食を食べ終わると・・・すぐにロビーに行く。
妹に「もう、帰っていいよ」と・・・言って。。。
やはり・・・同世代の方とのおしゃべりがいちばん楽しいのね。
紙パンツを、トイレに流して、詰まらせて・・トイレを水びたしにしたり
洗面台で、ティシュを流して詰まらせたり・・
相変わらず・・・この問題をおこしてはいるけれど
それ以外は・・・・問題ないみたい。
波はあるだろうけれど・・・ただいま現在のところは
母が楽しくしていてくださっている・・・!!
妹と私にとって・・・ほんとうに嬉しいこと!!
ありがたや&ありがたや

2006.1.23(月)
ついに・やっと・・実現!!

ルネサンスは、23日(月)と24日(火)の二日間、全国の全クラブが休館。
それで、今日は、天神のソラリアシネマに、念願の「THE 有頂天ホテル」を
観に行った。夫が10時頃出勤。がんばって家事をすませ・・いそいそとバスに乗った。
それで・・・・上映は13:00〜なのに12:10にはチケットをゲット。
本を読みながら、入場できるまで待った。
そして、列にならんで・・・入る。。
すごいよね。すごい人気。すごい前評判。観た人の評判も上々。。
先週、観られなかったと、このHPに書いたものだから・・
すでに観た人から、「観たよ。おもしろかったよ」と、メールが来たり、
ルネで、感想をお話してくださったり・・。
長女からも、メールがあり、
「おもしろかったよ。YOUの歌がとてもよくて、幸せな気持ちになりました」と
かいてあったので・・・YOUの歌がいつでてくるのかと・・・楽しみだった。
想像していたとおりだった。三谷幸喜氏の個性あふれる映画だった。
サービス満点の映画だった。
何度も・・・笑い転げた!!
松たか子演じる客室整備係のお姉さんが使っている携帯が、
わたしのとおなじ機種だったのが・・・うれしかった。
電話がかかってくると・・・うつくしいブルーの光が輝いていた。

長女のメールにあった、YOUの歌・・・なるほどよかった。
こんなに上手だったとは!
かとりしんごくんの歌もなかなか・・・純粋でよいものだった。
さて・・・次は、「博士の愛した数式」を・・・観たいものだ。
原作を・・・どのように映像化してあるのだろう。
博士を、寺尾聡が演じるらしいが??
「ダビンチ・コード」も映画化されるらしい。
はやく・・・読まねば!!
長女が置いていってくれた本が・・・・まだまだ・・・・いっぱいある!!

ERのコバッチュ・・できあがり・・!!

グランドサンRくんが、ママに散髪してもらうとき
希望したヘヤースタイルは
アメリカテレビドラマ「ER」にでてくる
イケ面ドクター「コバッチュ」のヘヤースタイルだった。
ママ・・・うまいじゃん??
(2006.1.23・・19:44受信・・PHOTO)

2006.1.24(火)
母の老化の速度が加速。
愛媛の妹から電話があった。母が病院のトイレでこけた。
たんこぶができていて、CTで検査した。軽い脳挫傷状態で若干の出血。
命には別状なし。
最近、排泄関係や、不潔行為関係で老化が加速しており、
トイレでこけることは、いちばん心配していたことだった。
でも、ひとりでトイレに行くことが、母としては、一番の誇りだったので
怪我の心配はあったけれど、うけいれ見守って来ていた。
だから、妹も、わたしも・・・覚悟の上の怪我だった。
よびかけると、目をあけるし、つねると痛がるけれど
点滴をうけて・・・気持ちよく眠っているらしい。
医師は「多分、もう、歩けないかも」と言っているらしい。
かわいそうだけれど・・・もう・・・怪我の心配はない。
母は・・・・ず〜っと・・・・おだやかに眠っている。
おかあさん、今までよくがんばったね。
これからは、ベッドでゆっくり休まれてください。
こうして・・・すこしずつ・・・衰えていくのですね。
あとから行く者たちに、母が身を持って・・・「たいせつに生きなさい」と
教えてくださっているように思えてしかたありません。
今日は、終日、電話の前ですごした。
妹は、9年もおしゅうとめさんの衰える状況を見てきているので
あわてず、さわがず、おちついて対処してくれる。
わたしなんか、おろおろ、何も手につかなかったのに。
だから、博多にいる姉のわたしが・・・妹からの母のことを知らせる電話の途中で
妹に、励まされているしまつだった。
妹は偉大なり〜〜!!



2006.1.25(水)
妹と電話・・・「母は、おだやかに眠っている」

2006.1.26(木)
妹と電話・・・「母は、おだやかに眠っている。少し改善」
全然、手がかからなくなってしまいました。
おだやかに、眠っている母です。
看護婦さんのお世話になっています。
高カロリーの点滴をいただいているそうです。
安静は・・・カンペキです。
こうなると、年末年始のできごとが懐かしいし、貴重なメモリアルになった。

2006.1.27(金)
妹と電話・・・「母はかわりなし」
明日、愛媛の母と妹に会いに行く予定。

2006.1.28(土)〜1.29(日)
新幹線と瀬戸大橋を行く四国への特急で、愛媛・西条へ行った。
下車して、すぐ、村上記念病院に行った。
駐車場で、妹とタイミングよく再会。
一緒に、3Fの母の病室に向かった。
母は、ナースセンター横の回復室にいた。ここが母の病室になっていた。
ここには、ベッドが2台あり、もうひとり、母と同じ状況のおばあちゃんが
ずっと、眠っている。
ふたりで、仲良く、ず〜っと眠っている。
ナースセンターから、よく見えるので監視がゆきとどいている。
高カロリーの点滴を受けているので、顔色もよく、おだやかに眠っている。
「お母さん、おはよう。。そろそろ、起きたらどうね。いっぱい寝たからもう起きてもいいよ」
などと・・呼びかけても、知らん顔でグーグー眠り続けている。
もう、5日くらい眠っている。起きない。
時々、目をあけたり、口をうごかしたり、咳して、たんのからみをとろうとしたり、
左手と左足を少しだけど、動かしたりする。
モニターTVに、脈拍&血圧&酸素量&呼吸数などが表示されるように
なっていて、どの数値も安定している。
看護婦さんから、たんを取ってもらったり、体位をかえてもらったり、
やさしく、こまやかに・・介護されている。
ひとりで歩いてトイレに行って、そこでの転倒、脳挫傷・意識もどらず・・
だから、病院側は、不行き届きということで、陳謝された。
でも、妹も私も、覚悟していたので、まさか、意識不明で寝たきりになるとは
考えてもいなかったけれど・・・病院側を責める気持ちはない。
むしろ、直前の母の奇行に、本人・我々・病院側・・が、苦悩しており、
病院側は、もてあまし、転院もほのめかしていた時期の事故だったので
なんか、母が、すべて「おみとおし」で・・・転倒して、頭をうつことで
全ての人々の困惑を解決したのだろうか・・・と、考えてしまう
状況になっていた。
ロビーには、倒れるその日まで、母と仲良く毎日、終日、おしゃべりしてくださっていた
おばあちゃんが、ひとりで、ぽつんと、椅子にすわっていらした。
胃の調子もよく、そのおばあちゃんとのおしゃべりが楽しくて、ご機嫌の毎日だったのが
妹と、わたしにとっては、最大の喜びだったので、
そのおばあちゃんに、心のそこから、お礼を申し上げた。
その方は、病気が回復し、31日に退院されるということを伺い
もし、母が元気なら、またさびしくなって、不機嫌になり、
ショックで痴呆が進んだだろうと思うと
母が進む道は、すべて合理的であり、いさぎよいように思わずにはいられない。
母とは、おしゃべりができないので、母のかわりに、そのおばあちゃんと
1時間くらい、おしゃべりさせていただいた。
退院されても、1人暮らしだそうだが、「気楽で、今がいちばん幸せ」と、おっしゃっていた。
お子様が4人もおられるのに、子供に迷惑かけたくない&自由がいい・・・と、いうことで
ひとりでできるあいだは、1人暮らしをする・・・ということだった。まだ、75歳だから
大丈夫ですよね。思えば・・・母も同じことを言っていた。
気兼ねして暮らすより・・・ひとりで気ままに暮らしたい・・・と。。
母の様子を見に行ったり、ロビーで、そのおばあちゃんとおしゃべりしたりしてすごし、
夕方になったので、宿泊する西条国際ホテルへ行き、チェックイン。
なんと、年末年始に、長女が泊まった部屋だった。
妹と、ホテルの部屋で、お茶しながら・・・今後のことを話し合った。
不謹慎かもしれないけれど、そのときがきたとき、そのあと、あわてないために。
それから、妹の西条のマンションに行き・・・
妹夫婦といっしょに、魚料理の「一幸」に夕食をしに行った。
おいしい食事だった。
ホテルに送ってもらって、入浴して・・・横になった。
ここ何日か、よく眠れてなかったのだけれど
実際に、おだやかに眠っている母をみることができたので
ある意味、ほっとしたのか、ひさしぶりによく眠れた。

翌日、日曜日には、母の様子をみたあと、妹夫婦と、父のお墓にお墓参りに行った(今治のお墓)。
妹たちは、年末にも墓参りしてくれたみたいで、おはながまだ生き生きしていた。
ほんとうに、よくできた・・・妹夫婦!!
わたしは、絶対まねできない。
西条に帰ると、母の様子をみたり、ロビーで、母のお友達だったおばあちゃんとおしゃべり
したりしてすごし、夕方、西条をあとにした。
四国の特急も、新幹線もしっかり混んでいた。
いつも思う・・・旅する人の多いこと!!
博多に着くと、鹿児島本線で香椎まで行く元気などなく、博多駅から、タクシーで
とっとと帰宅した。

おまけ
妹から、老人保健施設「ゆるぎそう」にいたころの母の楽しそうな写真を
見せてもらった。デジカメを持参していなかったので、携帯でその写真を撮ってきた。
PCにメール添付で送信し、とりこんだ。

母のしあわせそうな笑顔を見て、ほっとした。
妹は、「ゆるぎそうでは、こんな楽しいひとときもあったんよ」と、言った。
お誕生会・七夕・お花見・その他、いろいろな行事に妹が付き添ってくれていたのだった。
母が、妹にいかに依存していたかほんとうによくわかる。
妹も、ほんとやさしい笑顔をしている。
またまた・・・妹の偉大さと、優しさに感動し、感謝した。

PS
福岡に帰る前に、看護婦さんに質問した。
「母は、いったいどうなるのでしょう?」
答えは
「わかりません。患者さんによって経過が異なるので」
つまり、意識がもどるのか、それとも、このままの状態が、続くのか・・・
それは、誰にもわからない。

2006.1.30(月)
妹から電話「母は、あいかわらず・・熟睡継続。
脈拍&血圧・・その他全て・・安定」
このあと、書き込みがなければ・・・同じ状況と思ってください。
ずっと、おだやかに眠っていると思っていてくださいね。

2006.1.31(火)
愛らしい、グランドサンLちゃんが・・・五ヶ月になりました。
お兄ちゃんのRくんと、毎日、仲良く遊んでいるようです。
ママのK子ちゃんが、写真や、動画をメールに添付して
こまめに送信してくれます。
癒されます。ほんと・・・可愛いのだから!!

新発見!!
今までは、携帯で受信した写真を、自分のPCに転送はできなかった。
機種交換した「FOMA」では、受信した写真を[miniSD」に保存すると、
miniSDのファイルから、写真を選び、機能ボタンで、「iモードメール作成」から
その選んだ写真を添付して、メールを私のPCに送信できる。
つまり、自分の携帯で撮った写真も「miniSD」に保存しているのだから
おなじ手順でOKなのは・・・当然だよね。
今まで、受信した携帯の写真をデジカメで撮って、PCにとりこんでいたのだが・・・
今日・・・初めて・・・気がついた。
上のLちゃんの写真は・・・この方法でPCに受信して、マイドキュメントに保存したものを
HPに貼り付けたものです。
みんなは、知っていたのだろうけれど、自分で見つけたので
なんか・・・嬉しい。
もちろん、miniSDを直接PCにセットすれば、すべて取りこめるのは
知っているけれど。。。

2006.2.4(土)
午後10時ころ、福岡・香椎の自宅に帰ってきた。
母が、2月2日(木)8:15に、永眠しました。
2日が通夜
3日14:00〜葬儀告別式
1日(水)の夜、妹から、母が急変したという電話があり、
翌朝、急いでかけつけたけれど、間に合いませんでした。
妹の二人の息子、わたしの三人の子供達も、いそいでかけつけてくれ
通夜は一晩中、孫に見守られて、孫たちのおしゃべりを聞きながら
静かに横たわっていた母でした。
また、母の親友の方々、ご近所の方たちもきてくださり、ほんとうにありがたいことでした。
皆様、長年、母と仲良くしてくださってほんとうにありがとうございました。

お母さん、いままでのすべてのことに感謝します。ありがとう。。
やすらかに眠ってください。



父と母と妹と私・・・の・・・思い出

昔の古い写真をデジカメで撮ったので鮮明ではないけれど
父が、すごい男前だったことに気がつき、思わず、妹に電話したら、
妹は「そうよ、男前だったよ。立派な鼻だったし、眉毛が濃いかったし・・」と
言った。どうも、美男&美女のカップルだったようだ。
母は、妹と私の着るものすべてお手製だった。
中学、高校の制服のセーラー服も。。
昔の、母親はすごいね。献身がすごすぎる。
まねできなかったよ。
わたしは・・・いいかげんな母だったかもしれない。

大学の時のスーツもお手製だった。




母を写した最後の写真
2006.1.1村上記念病院・母の病室にて。
永眠する1ヶ月前の母。

デジカメで動画も何本か撮って、パソコンのマイドキュメントに
保存してあります。貴重な記録となりました。

このホームページのカウンター・・・まもなく、「30000回」をカウントすることに
なりそうです。
どなたが・・・ヒットされるのでしょう。
自然体で待ちましょう。



パンパカパ〜ン!!
ついに、カウンター・・30000を越えました。
2006.2.8(水)の朝、自分がアクセスしてみると

30005!!すごか〜〜!!
誰が、30000をヒットしたのかなあ??
掲示板に書き込みして知らせてもらいたいなあ・・・と、思っていたら
2006.2.8(水)19:27・・・長女から携帯メール!!

証拠写真付で!!
これってすごいね!!
パソコン〜ホームページ〜携帯電話〜携帯のカメラ〜〜〜〜
すごい時代になったもんだ!!
それにしても、おばちゃんのホームページで30000を超えたのは
ちょっと・・・・すごくないかい???

2006.2.10(金)
2ヶ月ぶりに美容院
母に会うとき、「白髪では娘らしくないなあ」と、
これまで、白髪ヘヤーダイしてきた・・が・・
母が亡くなり、なんか、もう自然のままでもいいかなあ・・・という思いもあった。
しかし、今日、美容院に行き、若い美容師さんに
「染めないと、ずいぶん感じが変わりますよ(老けますよ)。
まだまだ、若々しいヘヤースタイルでいましょうよ!」と
言ってもらい、もうしばらくは、カラーリングすることにした。
してよかった。気持ちが明るくなった。

愛媛・西条にいる妹から、毎日電話がかかってくる。
いろいろな相談やら、打ち合わせや、、、用事もあるけれど・・・
そこは、両親を見送って・・・本当に、肉親は「妹とふたりだけ」的気持ちで
とりとめのない話を1時間くらいする。
わたしの夫は長男、妹は三男の人と結婚したけれど、いろんな事情で
妹の夫も長男的立場にあり、
貧しい庶民の実家ではあるけれど、やはり、お墓&お位牌・・これをどうするか?・・
デジタル時代になっても・・残存する・・家制度!!
これが・・問題となってくる。
まず、一般的には、長男が自分の実家の墓を継ぐ・・が前提になり、
男女平等はうそ!!
友人のなかには、自分と夫の両親を同じお墓、同じ仏壇にしている人も
かなり出始めてきている。やがて、そうなっていくだろう!!
我々は、母がまだしっかりしていたころ、方針を示していてくれたので
その通りにすることにした。
今治にある実家の墓を、夫の実家と、妹の夫の実家の墓がある同じ墓地(偶然同じだった)に
うつすことにした。
つまり、三つの家のお墓が同じ墓地に集まり、メチャ便利!!
お位牌は、檀家のお寺で永代供養していただくことにした。
連日の、妹との電話でのおしゃべりで、方針が決まり
ふたりで・・・ほっとした・・・肩の荷がおりた。
あとは・・・・具体的な作業のみだ。
家をどうするか・・・これも難問!
母が亡くなった直後から「売ってくれ」「貸してくれ」と
いろんな話が舞い込んでくる。
家の中に存在するものをどうするか・・・まず、ここからスタートだよね。
「49日法要」で、帰省したときに少し片付けねば!!
テレビも4台くらいあるし、冷蔵庫も2台あるし・・
母は30年も1人暮らしだったのに、やたら荷物が多い。
生活を自由にエンジョイしていたようだ!!

2006.2.14(火)
わたしにとって、最もうれしいこと・・・
それは・・・子供達が、仲良くしてくれること!!
夕方、東京でがんばっている長女から携帯メールがあった。
「癒しをもとめに、これからRくんとLちゃんに会いに行ってきます・・」
Rくん&Lちゃんは、長男のふたりの息子。
3才8ヶ月と、0才もうすぐ6ヶ月!!
ふたりとも、とっても愛らしく、おもしろく、いとおしく・・・
まちがいなく癒してくれる。
兄の家に、妹が遊びに行く・・・ふつうのことかもしれないけれど
わたしにとっては・・・最もうれしいこと。
それもこれも、長男のお嫁ちゃまのK子ちゃんが優しいから!!
もちろん、長男もいつも、妹のことを気遣ってくれている。
厳しい環境で仕事をしている長女のことを思うと、胸がつまってしまう
なさけない母親であるから、長男夫婦や、かわいいグランドサンたちが
長女に優しくしてくれることが・・・とってもうれしく・・・ここでまたまた・・・うれし涙!!
妹とふたりで、3年ほどであったけれど、母の厳しい状況をのりこえて、
無事に、母を見送ることができた。
いつも、いつも・・・妹がいてくれることを、何度ありがたいと思ったことか!
絶対、ひとりでは耐えられなかった。たよりない姉ではあったけれど
妹も、同じようにきっと思っていると思う。
母には、姉妹が仲良くしているのを最後まで見てもらえた。
よかった!!
母親にとっては、子供はいくつになっても子供。
何人いても、どの子も大切に、大切に育て上げた子供。
大人になって、自立していって、母からは離れるのは当然であるから、
あとは・・・きょうだいが仲良くしてくれること・・・困ったときに助け合うこと・・
うれしいときに喜び合うこと・・・・
これが・・・最大の願い・・最大の喜び!!
同居している次男も、出張やら、外泊やら・・
夕食をともにすることもほとんどなく・・・段々・・・離れていっている。
先日、「Sくん、どんどん、離れていくね」と言ったら
「ふつうは、大学進学で離れたり、就職で離れたりするとよね」
「そうやね、上のふたりが東京に行ってしまったから、Sくんは
お母さんが心配で離れられないんだよね。」と言ったら、
「違うったい!!・・・金が無いから出て行かれんとよ!」
今夜も「飯食ってくる」メールが届いた。
楽しいバレンタインデー??だったら・・・いいのだけれど!
よけいなお世話だった!!
長女から届いた・・・グランドサンRくんの今夜の笑顔

後ろに見える、ダイニングテーブルの天板がガラスに見える!!
新しく買ったのかしら??

2006.2.15(水)
長男一家から・・・バレンタインプレゼント!!
お嫁ちゃまK子ちゃん手作りのチョコレートケーキが贈られてきた。

わたしには・・・美肌GOODS!!
かわいいイラストで美肌プランの説明までしてくれていた。
それに加えて・・・K子ちゃんが、優しい・優しいお手紙を書いて
プレゼントの箱に入れて下さっていた。
何度も、読み返し・・・泣けた・泣けた!!

なんて、優しい人なのだろう!!
わたしの長男には・・・もったいないくらいの・・・すばらしい女性だ。
ありがとう・・・ほんとうにありがとう。
ケーキは夫が帰宅したら・・・少しわけてもらおう!!

2006.2.18(土)
健康オタクの友人のお勧め
先日、ルネ香椎のプールのジャグジーで、おばちゃんたちが、5,6人で
温まりながら、おしゃべりしていたとき、50代前半の自称「健康オタク」の
友人の話にみなさんで集中した。
1・・・冷え性対策
ぬるめのおふろに30分つかる。ラジオを聞きながら、
顔のマッサージしたり(リンパの流れに注意しつつ)
おへその横指3本のところが便秘のつぼなのでおしたり・・しながら
それで、じわ〜っと顔に汗がでるまで温もり、出るときに手と足に水をかける。
2・・・便秘解消
朝、起きたらまず、コップ2杯の水を飲む。
ヨーグルトを200cc食べる・・・彼女はヨーグルトきのこで10年自家製とか。。
次・・・わたしは・・・これは使えると思った!!
インスタント味噌汁「あさげ」を、おおきなお椀にいれ、お湯を多めに注ぎ
納豆1個入れ、、しらす(ちりめんじゃこ)、、メカブ・・・を入れ
かきまぜる。
彼女は、「これでお腹いっぱいになり、パンは不必要になるよ」と言った。
今朝、わたしは、実行してみた。
うん、なかなか、おいしい。
身体にいいものばかりだよね。
わたしは・・・しっかりパンを食べ、おまけにケーキを2個たべたけれど・・・。
彼女は、白髪が1本も無く、お肌はおもちみたい。。
ジャグジーの中で、おばちゃんたちが、白髪にならない方法・便秘しない方法・
美肌のわけ・・・そして冷え性対策について
彼女の熱弁を聞いたひとときだった。おかげで・・・みなさんで30分以上ジャグジーに
つかっていた。
なんて・・・平和なんだろう!!
全員、子育てを終えて・・・悠々自適のおばちゃんたちだった。。
のどかで・・・いいよねえ!!

2006.2.20(月)
母が永眠して、19日目。
おだやかな最期のお顔で、ある意味、安心して母を送ったが、
日々の暮らしの中で、入院中のさびしい、不安な表情の母の姿が
一日中、あたまの上をくるくる回っている。
考えてみると、ほんと、何にも、してあげられなかった。
妹夫婦は母をよく、ドライブに連れて行ってくれたし、おいしいものを食べに連れて行って
くれたりした。妹は、何度か、母と旅行もしたらしい。
また、最後の3年間も、妹は、ほんとうによく母の面倒をみてくれた。
妹の夫も、始終、病院に行って、冗談を言ったりして、母をなごましてくれた。
わたしが、したこと・・・・お盆&正月に子供達と帰省したこと。
妹とわたしの子供達が小学生だったころ、妹が子供たちと母を連れて
飛行機で福岡に来てくれ・・・・少年科学文化センター(?)でプラネタリウムを見て
大宰府に連れて行って・・・・翌日・・・海へ連れて行った・・・こと!!
長男が小学二年生の秋、5メートルの高さのジャングルジムから落下して
入院!!
そのころ、4歳の長女と7ヶ月の次男をかかえて、どうにもならず
母に福岡に来てもらい・・・家事をしてもらったこと!!
そういえば・・・出産では・・・ほんとお世話になった!!
1971年10月、名古屋大学病院で長男を出産したとき
退院する日に名古屋に来てくれ・・・助けてくれた!!
1975年、長女出産のときは、父が入院していたので
夫の母と、夫の妹が、福岡に来てくれた。
夫の母と、夫の妹がずっと、ふたりで仲良くおしゃべりしていた。
1979年、次男出産のときは、父が亡くなって、母は1人暮らしだったので
母が・・・福岡に、手伝いに来てくれた。。
そして・・・最後に・・・母が福岡に来てくれたのは
長男が九大に合格したときだった。
長男に、高価なステレオセットをお祝いにプレゼントしてくれた。
そのときは、イムズがオープンした頃で・・・イムズに連れて行っただけで
愛媛に帰してしまった。
ドライブに連れて行ったこともないし、旅行にいっしょに行ったこともない。
おいしいものを食べに連れていったこともない。
まして・・・最期の3年間も・・・・たまに、1泊2日で・・・
母に会いに行っていただけ!!
トイレでこけて、意識不明になった母を、1泊2日の見舞いだけで・・・
そのような状態で・・・帰宅してしまい・・・・そのまま・・・他界させててしまった・・・だけ!!
今ころになって、いくら涙をながしても・・・親孝行はできない。

妹と・・・こんな話を電話でした。
妹の家族と、わたしの家族がみんなで集まって、母と、食事したことが
無い。
これは、私たちの責任だった。
企画さえしなかった。
妹家族と、わたしの家族が集まって、母と楽しむ機会を
つくるべきだった。
痴呆の初期なら、そのころ、ひ孫も3人もいたし・・・まだまだ・・・楽しめたかもしれない。
母の看護のことばかりに気をとられていた。
これは、後悔しても・・・しきれない。
また、妹は・・・こうも言った。
「母は、嫁にやった娘に迷惑をかけたくない気持ちから、
自分はいいから、嫁ぎ先の親を大切に・・・と、言っていたよ」
父が62歳で他界、そのとき母は51歳だった。ほんとうは寂しい30年間だったろうに
母は「今が気楽で一番幸せ」と、いつも言っていた。電話するたびに。。
嫁いだ、娘たちに心配をかけたくなかったのだろう。。
でも・・・
社交的だから・・母には、お友達がいっぱいいた。
女学校からの友達が何人もいた。
40歳くらいから、海苔やさんで25年くらい働いていたけれど
そこでの友人が・・・ほんとうに信頼できる友達となった。
友人たちと、お買い物に出かけたり、洋服を縫ってあげたり
旅行したり・・・1人暮らしの気楽さゆえ、友人がよく遊びに来てくれたりもした。
だから
痴呆が進んだ、最期の数ヶ月も、誰がお見舞いに行っても
私が行っても・・・「疲れた・・・来てくれない方がいい」と、言っていたのに
海苔やさんからの友人「KIYOちゃん」の、お見舞いは・・・心から喜んだ。
「誰が来るより・・・KIYOちゃんが来てくれるのが・・・いちばんうれしい」と。。
それで
「KIYOちゃん」は、49日の法事のあと、お位牌を福岡に持っていくかもしれない・・
ということが・・・
辛くて、辛くて心配してくれていた。だから、西条の保国寺に永代供養してもらうことに
したことを言うと・・・涙を流して喜んでくれた。
いつでも、お参りに行けるから。。
「KIYOちゃん」が、母をどうしてそんなに大切にしてくれるかというと
KIYOちゃんが、入院したとき、母が泊り込んで、看病したということが
あったからだった。家族にもできないほどの看病を母がしてあげたからだった。
友達に恵まれて、母は幸せだったんだと・・・信じたい。
娘より、親友とのほうが、言いたいことを言い合えるということもあるから。。

2002年11月・・実家で
母と、ひまごRくん!!
うれしそうな笑顔・・!!

家事をしていると、母に対する後悔の思いがどんどん出てくる。
元気だったころ、よく電話をくれたけれど、
友達の話が多くて、あいづちをうちながら聞いていても
心はうわのそらだった。逆に、わたしの家族のことをきかないで
なんで友達のはなしばかりするのだろうと・・・不満だった。
でも、今、思うと・・・母の人間関係は、友人とのかかわりしかなかったのだ。
30年間も1人暮らしで、やさしくしてくれたのは友達だったのだものね。
もっと、しんみに友達の話を聞いてあげればよかった!!
愛媛に帰省しても、家族が多い、夫の実家のほうが楽しいから
つい、夫の実家でみんなとワイワイやることが多かった。
そんな時、母は、実家でひとりで晩御飯を食べていたのだ・・・と
今頃、気がつき、母とふたりきりの夕食がいくらつまらなくても
私までが、夫の実家の宴会に出なくても、母とご飯をたべてあげればよかったのに!!
そして・・・きわめつけ・・・
「夫の実家でご飯を食べた後、福岡に帰る前に、お母さんに
挨拶しにいくからね」と・・言ってでかけたものだから、
実家に行くと・・・母が、道端にすわりこんで待っていた。
厳しい・寂しい顔をしているから、家の中でイライラして待ちくたびれ
とうとう外で待ち・・道端で・・待ちくたびれたのだろう!!
そして「新幹線の中で食べんかい・・」と
ぷっちんプリンとみかんがはいった袋をわたしてくれた。
そのときは・・・道端で待つなんて・・・すかんねえ・・・と・・・
ショックで・・・夫にたいして、恥ずかしくて・・・辛かった!!
でも・でも・・・今、思うと・・・母は・・・
夫の実家で、今頃楽しくワイワイやっているのだろうと
嫉妬心もあっただろうし・・・くやしさもあって
とうとう・・・道端で待つことになったに違いない。
ほんとうに・・・長年にわたって、寂しい思いだけをさせてしまった。
今頃、あやまっても・・・どうにもならない。
決して、母と私の関係はいいものではなかったけれど
でもでも・・・寂しさくらいは・・・帰省したときは・・・理解してあげなくてはいけなかった。
両親に、優しくしてあげられなかった
変人の娘だったことを
両親に深くお詫びしたい。
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